私のような小心者はプライベートでも仕事でも絶対に遅刻なんかしないので(ムーンアイズ営業部:松浦君よく聞いておくよう・・・・)約束の1時間15分も前に現場付近に着いてしまい(早過ぎます)仕方がないので高速道路のSAにてコーヒーブレイクを敢行し、朝焼けの中一人ベンチに座ってほろ苦い缶コーヒーをすすっておりました。
するとですね、あっちの方から何やら小さな青い物体がこっちにやって来たのです。「むむ、なんだあれは」と思っていると、青い物体は私のほうめがけて進んで来てピタっと目の前に止まったのです。次の瞬間私は「ウオオオオ〜」と叫びコーヒーを吹き出してしまいました。小さな青い物体はスバル360だったのです。いやスバル360なんかちっとも珍しいクルマじゃないのですが、そいつはただのスバルなんかじゃなくってなんとまあ初期型の超レア車「デメキン」スバルだったのです!!!




「ここここ、これは一体何なんだ、夢か幻か本当に頭がおかしくなったのか?」と思いましたが、現実に目の前にあるのは紛れもなくデメキンなのでした。いや〜、イベントや博物館なんかで見たことはありますけど、実際に高速道路を走って現れたデメキンなんて生まれて初めて見ました、凄過ぎます!!
オーナー様に「私は決して怪しいものではありません、ただの変態です」とことわった後、写真を撮らせて頂きました。デメキンヘッドライト、スライドウィンドウ、素敵な書体のエンブレム、蜜をかけて食べてしまいたいくらいかわいいテールレンズ等々初期型のディティールにしびれまくり、失神しそうになりながらも無事撮影を終えました・・・・お話しを聞くと’61年型との事で、ウチのおやじのファーストカーとほぼ同じモデルでした(2008年2月22日Wildman’s Blog参照)
オリジナルで程度も良いそのデメキンさんは、快調な2ストサウンドと白煙をまきちらしながら朝焼けの中、高速道路のかなたに消えて行きました。その日は仕事を終えて家に帰ってから、朝会ったのと同じブルーのブリキのデメキンさんを見てウットリしながら就寝致しました・・・・zzzzzzz


ということで唐突に力道山先生なのであります。だって先週からの続きなんだもん・・・
前回のブログでご紹介した、日本橋は人形町の「プロレスリング・センター」力道山道場跡及び渋谷は道玄坂の「リキ・スポーツ・パレス」跡を取材撮影した後に向かったのは、赤坂見附でありました。赤坂の地は先生が「リキ・アパートメント」や「リキ・マンション」をお建てになり、リキ王国を築こうとしていた土地なのであります。しかしそこは先生が命を落とした地でもあるのでした・・・・・
昭和38年12月8日は力道山先生の運命の分かれ道でした。前日に浜松でデストロイヤー(噂のチャンネル)らと年内最後の試合を終えた先生は夜行列車で8日に帰京しました。しかしこれは本来の予定ではなく、急用により東京に戻られたのでした。日本相撲協会から「大相撲アメリカ巡業に力を貸して欲しい」と頭を下げられて頼まれ、元「関脇力道山」はこのお願いの為に急遽予定を変えて東京に戻ったのです。元々相撲に裏切られる形で角界を飛び出しプロレスラーに転身して成功した先生にしてみれば、相撲協会から頭を下げられるというのは痛快だったのでしょう・・・・
この日、相撲協会との打ち合わせを終えた先生は夜の赤坂の街に繰り出しました。プロレスの打ち上げも兼ねていたので多数の取り巻きをひきつれた先生はほろ酔い気分になり「もう一軒行こう!!」となりました。この時「コパカバーナ」というクラブに行く予定だったのですが、ちょっとしたことから先生は気分を害し「やっぱコパはやめだ、ラテンに行こうと」急遽行先を「ニューラテンクォーター」という超高級クラブに変更したのです。


ニューラテンクオーターというのは昭和30年代から40年代に掛けて全盛を誇ったお店で、海外から大物エンターテイナーを招致していてサミー・デイビス・ジュニアやザ・プラターズ、ダイアナ・ロスまでこのお店に出演していました。政界、芸能人、スポーツ選手、そしてヤクザさんが利用する「座っただけでウン万円」のお店のはしりで、力道山先生もよく御利用されていました。

先生はラテンで程よく酔っ払って、ロビーの方に行かれそこでホステスさんと立ち話をしていました。するとそこにトイレに行こうとしていたヤクザ屋さんのM氏が先生の横を通り「足を踏んだ、踏まない」で口論になりました。短気な先生はM氏をぶっ飛ばしてしまいました。3mくらい飛んだそうです。そして馬乗りになってボコボコにしているとM氏が下からナイフを突き出しました。以前M氏は外人プロレスラーとケンカしてひどい目に会っていたので殺されると思ってのことでした。そりゃプロレスのチャンピオン力道山に馬乗りになられれば正当防衛ともいえますよね・・・・
腹部を刺されてしまった先生はその後、ラテンや病院で大暴れした後、早朝になってやっと手術を受けました(もっと早くしておけばよかったのに・・・・)先生にとってみればたいしたキズでもなく、その後入院し驚異的な回復を見せていましたが、突如腹膜炎を起こし再手術をするも、先生は旅立たれてしまいました、合掌・・・・ついこの前の昭和38年12月15日のことでした。

こうして戦後のスーパースターである力道山先生はあっけなく皆の前から姿を消してしまったのです。
その後、昭和の時代は先生の死についていろいろ言われ「入院中にコーラを飲んで死んだ」とか「リンゴを食ってしんだ」というバカな話がまかり通っていました。しかし平成になって先生の死の真実がやっと突き止められました。
ハイ、単なる医療ミスでございました。入院していた病院で麻酔時に筋弛緩剤を使用した際に気管内挿官に失敗して無酸素状態が続き、呼吸が出来なかった(人工呼吸をしなかった)というもので意識があるのに呼吸が出来ないという何とも恐ろしいものなのでした。先生が可哀そう過ぎます・・・・
下記の本に詳しく解説されておりますので皆さまも「麻酔と蘇生」を研究して下さい。

先生の没後46年が経ちましたが、運命のお店「ニューラテンクォーター」もすでにこの世には存在致しません。
ラテンはあの大惨事(火災)

を起こした「ホテル・ニュージャパン」敷地内の地下にあったのです。現在その跡地には「プルデンシャル・タワー」というこのような高層ビルに生まれ変わっておりました。近くには六本木ヒルズもあって、現在の景色からはラテンがあった頃の昭和30年代の風景は想像もつかないような感じになっています・・・・


先生がリキ王国を築こうとしていた赤坂周辺は現在では先生の目論見通り立派な街になっております。さすが力道山先生であります!!